スマートフォンの通知、職場の空気、家庭での役割、街の音と光。気がつけば私たちは、朝起きてから眠るまで、ほとんど途切れることなく何かを「受信」し続けています。
私は、自分でも呆れるほど完全な内向型です。今はかなり克服しましたが、以前は極度の人見知りでもありました。そんな私が、心がすり減ったときに何度も立て直すきっかけをもらってきた場所が、温泉です。
この記事では、「温泉は、いわゆるHSP(とても敏感な気質の人)や、心に不調を抱えている人が、現状を良い方向に変えるきっかけになりうる」という私の考えを、根拠と注意点、そして私自身の体験を添えてお伝えします。
先にお断りしておきたいこと 温泉は医療の代わりにはなりません。通院中・服薬中の方は、旅行の前に主治医に相談してください。つらさが強く、日常生活もままならない時期は、まず休むことと、医療機関や相談窓口に頼ることが先です。この記事は、「少しだけ余力が戻ってきたとき、次の一手として温泉という選択肢がある」という話だと受け取っていただければ幸いです。
この記事の要点
- 湯船に浸かっている時間は、現代人にとって数少ない「強制オフライン」の時間
- 単純温泉の浴用の適応症には「自律神経不安定症、不眠症、うつ状態」が国の基準に明記されている(ただし「治る」という意味ではない)
- 感受性の強さは、悪い刺激だけでなく「良い環境の恩恵」も大きく受け取れる方向に働く
- 初めて「心のために」温泉を選ぶなら、単純温泉・100%源泉かけ流し・非観光地・貸切風呂の4条件
- 滞在は私見で最低3泊4日。ただし「入りすぎない」ことが肝心
- 私の心が復活した3つの宿は泉質がまったく違った。共通していたのは「時間の流れ・自然・人との距離感」
温泉で「心が少し軽くなる」と私が感じる理由
体を温め、入浴後の体温変化が睡眠に影響する可能性
仕事・家庭など、普段の役割から一時的に離れる
自然環境に触れることとwell-beingの関連が研究されている
人との接触や予定を自分で減らし、刺激を調整する
温泉そのものだけでなく、「温浴+自然+転地+ゆっくりした時間」が重なることに意味がある。
1. 温泉が「心の回復」のきっかけになりうる3つの理由
1-1. 湯船の中は、誰とも話さず、スマホもない「強制オフライン」
温泉に入っている間、私たちは基本的に誰とも話しません。裸で、荷物も持たず、スマートフォンは脱衣所のロッカーの中です。つまり、外からの情報が物理的にシャットアウトされます。
考えてみれば、通知が届かず、返信を求められず、誰かの表情を読まなくていい時間は、いまの生活にどれほどあるでしょうか。通勤電車でも、食事中でも、寝る前の布団の中でも、私たちは受信し続けています。湯船はその数少ない例外です。
心理学には「注意回復理論」という考え方があります。仕事や画面に意識的に注意を向け続けると、その力は消耗します。一方で、自然の中で、川の音や湯気の揺らぎのように「無理なく引きつけられる」ものに注意を委ねると、消耗した注意の力が回復するという理論です。湯船に浸かり、湯の音、肌に触れる温度、立ち上る湯気の匂いにぼんやりと注意を向けている時間は、まさにこの回復の時間だと私は思っています。
受信しすぎて疲れる人ほど、この「受信を止められる場所」の価値は大きいはずです。
1-2. 転地効果:仕事と家庭から、物理的に切り離される
温泉旅行のもう一つの大きな効果が「転地効果」です。日本温泉協会は、温泉および温泉地の効果を、温泉そのものの効果(含有成分による効果、変調効果、温熱・浮力・水圧による物理的効果)と、転地・気候・植生など周囲の環境による効果、そして食事や運動を含めた総合効果として整理しています。温泉の効果は、お湯だけで完結するものではないのです。
心の疲れという観点で言えば、転地効果の核心は「役割からの一時的な解放」だと思います。職場では担当者、家では親や配偶者や子。日常にいる限り、私たちはずっと何かの役割を演じています。温泉地に身を置くと、その役割が一度外れます。仕事はもちろん、家庭という日常からも、一時的に切り離された状態を意図的に作ることができるわけです。
自然環境の効果には研究の裏づけもあります。90分間自然の中を歩いた人は、都市部を歩いた人に比べて反芻思考(同じ悩みを頭の中で繰り返すこと)が減り、それに関わる脳の部位の活動も低下したという研究(Bratmanら、2015年)や、週に合計120分以上を自然の中で過ごす人は健康状態や幸福感が高い傾向にあるという約2万人規模の調査(Whiteら、2019年)が知られています。
私が温泉滞在中に感じる「不思議と頭の中が整理される」感覚は、おそらくこの反芻のループが物理的に切れることと関係しているのでしょう。
1-3. 入浴そのものが持つ、生理的なリラックス効果
入浴という行為そのものにも効果があります。温熱によって血管が広がり血流が良くなる作用、浮力によって体重の負担から解放される作用、水圧によるマッサージのような作用。ぬるめのお湯にゆっくり浸かると、心身を休息モードに切り替える副交感神経が優位になりやすいとされます。
睡眠については、質の高い研究の裏づけがあります。過去の研究を統合したメタ分析(Haghayeghら、2019年)では、就寝の1~2時間前に40~42.5℃程度のお湯で10分ほど温まると、寝つきまでの時間が短くなり(平均で10分ほど)、主観的な睡眠の質も改善すると報告されています。体が温まったあとに深部体温が下がっていく過程が、眠りのスイッチになるためです。
うつ症状に対しても、ドイツで行われた小規模なランダム化比較試験(Naumannら、2017年)で、うつ病の外来患者に40℃のお湯に頭を出して浸かる温浴を週2回・4週間行ったところ、偽の介入を受けた群よりもうつ症状の評価尺度が有意に改善したという報告があります。参加者36人のパイロット研究なので結論を急ぐことはできませんが、「温まること」が気分に働きかける可能性は、真面目に研究されている領域です。
2. 「感受性が強い」は、弱点だけではない
2-1. HSPとは何か──診断名ではなく、気質の概念
HSP(Highly Sensitive Person)は、アメリカの心理学者エレイン・アーロンが1990年代に提唱した概念で、刺激を深く処理し、周囲の微妙な変化や他人の感情に気づきやすい気質を指します。人口の15~20%程度がこの気質を持つとされます。
大切なのは、HSPは病名でも医学的な診断名でもないということです。「自分はHSPかもしれない」と思うことが、何かの病気を意味するわけではありません。逆に、心に不調がある方が「自分はHSPだから仕方ない」と結論づけて、必要な受診を遠ざけてしまうのも避けたいところです。HSPは、自分の取扱説明書を書くための言葉の一つとして使うのが、ちょうどいいと私は考えています。
2-2. 良い環境の影響も、よりダイレクトに受け取れる
感受性が強いということは、悪い刺激の影響を大きく受けてしまうということです。人混み、騒音、強い匂い、誰かの不機嫌。私も、その日一日の気分が周囲に左右されがちです。
しかし近年の研究は、この裏側に光を当てています。心理学者のマイケル・プルースとジェイ・ベルスキーは、感受性の高い人は逆境に弱いだけでなく、支援的な環境や心理的な介入といった「良い経験」からも人一倍大きな恩恵を受ける、という考え方を「ヴァンテージ・センシティビティ(vantage sensitivity)」として2013年に提唱しました。実際、感受性の高い子どもほど、心理教育プログラムの効果が大きく、長く続いたという研究も報告されています。また、2025年に発表された研究では、支援的な環境にいる感受性の高い人はより高いウェルビーイングと関連し、自然とのつながりがその一因になりうることが論じられています。
つまり、感受性の強さとは「受信の感度が高い」ということであって、受信するものが悪いか良いかは環境次第なのです。温泉地の静けさ、肌に触れる湯の質感、湯気の匂い、山の空気、波の音。これらの良い刺激を、人一倍深く、ダイレクトに受け取れるのが、感受性の強い人の特権でもあります。だからこそ、私たちにとっては「どこで、どう過ごすか」という環境の設計が、回復の効率を大きく左右します。
2-3. ただし「刺激の設計」を間違えると逆効果になる
同じ理由で、温泉であっても刺激の強い環境は避けたほうが無難です。熱すぎるお湯、肌がピリピリするような強い酸性泉、強烈な硫黄の匂い、混み合う大浴場、賑やかな温泉街、密度の高い接客。温泉好きには魅力でも、心が疲れているときには負担になりえます。
HSP・内向型の人のための温泉選びは、「刺激を減らし、良い刺激だけを残す」設計だと考えてください。その具体策は第4章でお伝えします。
3. 根拠を確認しておきたい:単純温泉の適応症「自律神経不安定症・不眠症・うつ状態」の意味
3-1. 国の基準に明記されている
温泉の泉質ごとの「適応症」は、温泉法に基づいて環境省が定めています。2014年(平成26年)、日本温泉気候物理医学会の協力のもと、最新の医学的知見と科学的根拠を踏まえて改訂されました。この改訂で、単純温泉の泉質別適応症(浴用)として明記されたのが「自律神経不安定症、不眠症、うつ状態」です。
また、療養泉全般に共通する一般的適応症(浴用)にも「自律神経不安定症」「ストレスによる諸症状(睡眠障害、うつ状態など)」「疲労回復」が含まれています。さらに、塩化物泉と硫酸塩泉の泉質別適応症にも「うつ状態」が挙げられています。心の症状に対して温泉が期待されるというのは、個人の感想ではなく、国の基準に位置づけられた考え方なのです。
3-2. 「適応症」は「治る」という意味ではない
ここで一つ、正確に押さえておきたいことがあります。「適応症」とは「温泉療養の対象になりうる症状」という意味であって、「入れば治る」「効果が保証される」という意味ではありません。宿や施設に掲示されている「効能」は、法律上、この適応症と禁忌症(入ってはいけない場合)の掲示に基づくものです。この記事で「効能」ではなく「適応症」という言葉を使うのは、そのためです。
温泉は医療の代わりではなく、回復しやすい条件をそろえるための環境の一部。この位置づけを崩さないことが、結果的に温泉を正しく味方につけることにつながります。
3-3. 研究で分かってきたこと、まだ分かっていないこと
温泉地に住む人を対象にした大規模な調査もあります。九州大学病院別府病院の研究グループが、大分県別府市の65歳以上の市民1万429人にアンケートを行ったところ、毎日温泉に入る人は、そうでない人に比べて4割程度うつを発症しにくい傾向が確認されました。研究チームは、就寝前の温泉入浴が睡眠の質の改善につながり、それがうつの少なさと関係している可能性を指摘しています。この成果は2022年12月に英国の学術誌「Complementary Therapies in Medicine」に掲載されました。
ただし、この研究は高齢者を対象にした調査であり、「温泉に入るからうつが少ない」のか「元気な人が温泉に入れている」のかまでは区別できません(相関であって因果ではない)。前述の温浴のランダム化比較試験も小規模です。研究者自身も、より厳密な試験が今後必要だと述べています。
それでも、①国の基準で心の症状が適応症に位置づけられていること、②入浴が睡眠を改善するという質の高い証拠があること、③温浴がうつ症状に働きかける可能性が臨床試験で示されつつあること、④温泉地の生活習慣とうつの少なさに関連が見られること。これらを合わせると、「温泉は心の回復のきっかけになりうる」という考えは、十分に根拠のある仮説だと言えます。
4. 初めて「心のために」温泉を選ぶときの5つの条件
ここからは実践編です。温泉に慣れていない方、とくに感受性が強く人が苦手な方に、私が最初におすすめしたい条件は5つあります。
静かに休みたい人の温泉選び 5条件
| 条件 | 選ぶときのポイント |
|---|---|
| 泉質 | 刺激が比較的マイルドな単純温泉などを候補にする |
| 湯の利用方法 | 加水・加温・循環ろ過・消毒などを温泉分析書や公式情報で確認 |
| 温泉地 | 平日・閑散期・山あいなど、自分にとって静かな環境を選ぶ |
| 入浴環境 | 貸切風呂や客室風呂など、人目が気になりにくい選択肢を検討 |
| 宿との距離感 | 食事場所、接客、館内規模など、自分が疲れにくい距離感を考える |
※「おすすめ」は医学的な適否を意味するものではなく、 静かに過ごしたい人のための旅行上の選び方です。
4-1. 泉質は「単純温泉」から始める
単純温泉とは、温泉1kgに含まれる溶存物質が1g未満で、湧出時の温度が25℃以上の温泉のことです。比較的刺激がマイルドとされるため、初めて温泉を選ぶときの候補の一つになりやすく、「家族の湯」と呼ばれることもある泉質です。前述のとおり、浴用の適応症には自律神経不安定症・不眠症・うつ状態が明記されています。
単純温泉のなかでも、pHが8.5以上の「アルカリ性単純温泉」は、肌がつるりとする感触が穏やかで心地よく、源泉温度が低めの「ぬる湯」の単純温泉は、長く浸かっても体への負担が少なく、心を静めるのに向いています。
泉質は、宿や施設の脱衣所に掲示されている「温泉分析書」に記載されています。予約サイトや公式サイトの温泉情報にも「泉質:単純温泉」のように書かれているので、予約前に確認しておきましょう。
4-2. 「100%源泉かけ流し」を選ぶ
最初の一回でとくにおすすめしたいのが、100%源泉かけ流しの温泉です。理由はシンプルで、「自然に最も近い温泉」だからです。地中から湧いた湯を、加水も循環ろ過もせず、そのまま浴槽に注いで、あふれた分は捨てていく。家風呂やスーパー銭湯と湯の鮮度、肌ざわり、匂い、湯上がりの体の感覚が異なることを感じ取っていただけることと思います。
ただし、私は原理主義者ではありません。源泉の温度が低くて加温している、湯量の都合で一部循環している、といった宿にも素晴らしい温泉はたくさんあります。「最初の一回は、違いを体感するためにかけ流しを」というのが趣旨です。
※ちなみに『源泉かけ流し』という言葉自体は、温泉法に定義された法律用語ではありません。施設によって表示の意味が異なる場合があるため、私は『加水・加温・循環ろ過・消毒などがどうなっているか』まで温泉表示を確認するようにしています。
4-3. 有名観光地の温泉は、最初は避ける
人が苦手な方には、観光地として有名になっている温泉地は、最初は避けることをおすすめします。理由は、人の多さと音、そして「せっかく来たのだから」という観光のミッションが増えてしまうことです。名所を回り、行列に並び、写真を撮る。それは楽しいことですが、心を休めるという目的からは遠ざかります。
狙い目は、環境省が指定する「国民保養温泉地」のような静かな温泉地、山あいの湯治場、そして有名温泉地の外れにある小さな温泉地です。たとえば南紀白浜のような大観光地でも、後述する椿温泉のように、車で20分ほど離れるだけで別世界のように静かな場所があります。時期は平日、そしてその温泉地の観光シーズンを外すのが鉄則です。
4-4. 人目や衛生面が気になるなら、貸切風呂・客室露天風呂のある宿を
大浴場で他人と一緒になること自体がストレス、体を見られたくない、他人が入った湯が気になる。そういう方には、貸切風呂や客室露天風呂のある宿をおすすめします。貸切風呂は、鍵をかけて一人(または連れの人だけ)で入れる浴室で、多くの宿では時間予約制です。客室露天風呂なら、部屋から一歩も出ずに何度でも入れます。
大浴場しかない宿でも、早朝や深夜など人の少ない時間帯を選ぶ、浴室が複数あって人が分散する宿を選ぶ、という工夫で負担はかなり減らせます。衛生面については、お湯の提供方法や浴槽の清掃・換水の頻度を公式サイトなどで確認しておくと安心です。
4-5. 宿の「距離感」を選ぶ:小規模か、大規模か
小規模な旅館や民宿は、良くも悪くもお客様との距離が近い傾向があります。家族経営ならではの温かさがある一方、会話の機会も増えます。逆に、大規模な旅館や日帰り施設を併設した宿は、良い意味で「放っておいてくれる」ことが多い。あくまで傾向ですが、自分がいまどちらを求めているかで選ぶとよいでしょう。
距離感を調整する手段はほかにもあります。素泊まりや食堂での食事にすれば、部屋に人が入ってくる機会が減ります。逆に部屋食にすれば、他の客と同じ空間で食べなくて済みます。予約時の備考欄に「静かに過ごしたいので、館内の説明などは最小限で大丈夫です」と一言添えると、多くの宿はさりげなく配慮してくれることでしょう。
補足:食事の重さ、電波、移動手段
心が疲れているときは、豪華な会席料理が負担になることもあります。湯治プランのような軽めの食事、あるいは素泊まりで好きなものを食べる選択も有効です。また、あえて電波の弱い山あいの宿を選ぶと、スマホから離れやすくなります。移動手段については、車があれば周辺の行動範囲が広がる一方、公共交通なら乗り換えの少ないルートを選ぶと当日の負担が減ります。
5. 何泊すればいい?「3泊すると変わった」という私の実感
5-1. 1泊目は緊張、2泊目で静まり、3泊目で自分に向き合える
私の場合、心が疲れているときの温泉滞在は3泊すると「ようやく日常から離れた」と感じやすくなります。
1泊目は、移動の疲れと慣れない環境への緊張で終わります。2泊目になって、ようやく頭の中が静かになり、時間がゆっくり流れ始めます。3泊目に、初めて自分自身を見つめ直す余裕が生まれる。後述する私の3つの体験はすべて3泊でしたが、それは偶然ではなく、この感覚が理由です。
ただし、これはあくまで私自身の経験です。3泊4日が温泉療養の医学的な最低日数という意味ではありません。1泊で十分な人もいれば、逆に長期滞在が合う人もいます。
私にとっての「3泊4日」のイメージ
移動・チェックインだけで十分。予定を詰め込まない。
入浴、読書、昼寝、散歩など、その日の気分で過ごす。
「何かをしなければ」を手放し、自分に向き合う余裕を持つ。
帰宅後の予定も詰めすぎず、余白を残す。
※これは筆者自身の体験を整理したもので、医学的・公的な「必要日数」を示すものではありません。
5-2. 公的な目安と「湯あたり」を知っておく
一方で、公的な目安も知っておいてください。温泉療養に関する国の注意事項では、温泉療養を始める場合、最初の数日は入浴回数を1日あたり1回程度とし、その後は1日2~3回までとすること、温泉療養に必要な期間はおおむね2~3週間が適当であること、そして温泉療養を始めて3~7日前後に「湯あたり」などの浴用反応が現れることがあり、その間は入浴回数を減らすか中止して回復を待つこと、とされています。
この目安から言えることは2つです。一つは、3泊4日は本来の湯治の入り口に過ぎないということ。もう一つは、3泊4日の最終日あたりは、まさに湯あたりが出やすい時期に重なるということです。たくさんの湯船がある宿では、つい何度も入りたくなりますが、だるさ、頭痛、食欲不振を感じたら入浴を減らして休むこと。1日2回程度、40℃前後のぬるめの湯に10分ほど、長く浸かりたいときは休憩を挟んで分ける、入浴の前後にコップ1杯の水を飲む。このくらいが、心のための温泉滞在にはちょうどいいと思います。
5-3. 過ごし方:予定を入れない、好きなことをする
過ごし方のコツは、予定を入れないことです。散歩、昼寝、読書、湯に入る、また昼寝する。それだけで十分です。私は後述のひらゆの森で、一日中部屋で持ち込んだ携帯ゲームをして過ごした日もありました。「せっかく温泉に来たのだから自然を満喫しなければ」と自分を追い立てる必要はありません。安心して、好きなことを、誰にも見られずにする。それ自体が回復です。
夜は、就寝の1~2時間前に入浴を済ませておくと、前述の研究のとおり寝つきが良くなります。朝は、目が覚めたら朝食前に一度湯に浸かる。この夜と朝の2回を軸に、余力があれば午後にもう1回。これが私の基本の型です。
6. 旅そのものが壁になる人へ:準備とサポート
ここまで読んで、「温泉には行きたいけれど、旅行そのものが無理」と感じた方もいるかもしれません。それは自然なことです。旅行には、日ごろ慣れない手続き、移動、そして最低限の対人接触が伴います。チェックイン、館内の説明、食事の時間の確認、清掃の方との挨拶。健康なときには何でもないことが、心が疲れているときには高い壁になります。
そういう方には、可能であれば、信頼できる人のサポートを得ることをおすすめします。具体的には次のような形です。
- 予約や交通手配を代わりにやってもらう、または一緒に決めてもらう
- 宿まで送迎してもらう(滞在は一人でも、行き帰りだけ同行してもらう)
- 同行してもらい、チェックインや食事の会話を任せる(同室でも、別室でも)
- 到着日と出発日は「何もしない日」として、移動以外の予定を入れない
- 「無理だったら途中で帰ってもいい」と、あらかじめ自分に許可を出しておく
一人で行く場合は、ネット予約とメールでのやり取りを中心にして電話を減らす、予約時に食事の時間や苦手なものを伝えておく、貸切風呂の予約時間を決めておく、館内図を事前に見ておく、といった準備が当日の負担を減らします。
医療面と安全面で、必ず守ってほしいこと
- 通院中・服薬中の方は、旅行前に主治医に相談してください。薬によっては体温調節や血圧に影響するものがあり、入浴時の注意点が変わることがあります。
- 症状が重く、日常生活が困難な時期は、旅行そのものが負担になります。まず休養と治療を優先してください。
- 温泉には、法律上の「禁忌症」があります。発熱を伴う病気の活動期、重い心臓や肺の病気、消化管出血など、体調に不安がある場合は医師に確認を。
- 飲酒後の入浴は避ける。冬場は脱衣所や廊下を暖かくして温度差(ヒートショック)に注意する。入浴の前後に水分をとる。貸切風呂や客室露天風呂でも、一人で長湯しすぎない。
温泉は、こうした基本を守ってこそ味方になります。
7. 私の「温泉による心の復活」ベスト3
ここからは体験談です。「温泉による心の復活」という言葉で、私の温泉体験の中から最も印象的な3つを紹介します。先にお伝えしておくと、この3つの宿の泉質はまったく違い、実は単純温泉は一つもありません。それでも心が回復した理由が、この記事の結論につながります。なお、いずれも訪問当時の情報です。プランや料金、利用時間は変わっている可能性があるので、公式サイトで最新情報をご確認ください。

7-1. 奥飛騨温泉郷・平湯温泉「ひらゆの森」(岐阜県高山市)── 一人旅・3泊
環境:標高1,250mの山あいにある平湯温泉は、北アルプスの玄関口です。宿の周りは美しい山々に囲まれ、空気がきれいで、少し歩けば落差60mを超える平湯大滝の水音に包まれます。奥飛騨の自然環境そのものが、最初の「転地」でした。


湯:ひらゆの森は約1万5千坪の広大な敷地に男女合わせて16の露天風呂が点在し、館内すべての温泉が源泉かけ流し(温度調節のための加水あり)です。泉質はカルシウム・ナトリウム・マグネシウム-炭酸水素塩・塩化物泉で、ときに乳白色に変わる湯。塩化物泉として「うつ状態」が泉質別適応症に含まれる泉質でもあります。露天は森の中に点在し、開放感は抜群です。そしてここには、大きな鉄鍋をそのまま湯船に使った貸切風呂「鉄鍋の湯」があります。半分が露天、半分が内湯というユニークな造りです。鉄鍋に一人で浸かって森を眺めていると、自分が煮物の具材になったような妙な可笑しさがあって、張り詰めていた何かがほどけました。
食:飛騨牛、朴葉味噌、川魚、山の幸。山の食べ物は、なぜか心に効きます。
距離感:ここは日帰り入浴施設を併設した大型の宿で、私が泊まったときは、良くも悪くも「丁寧すぎる接客サービス」はありませんでした。それが、当時の私にはちょうど良かった。誰にも構われず、一日中部屋で持ち込んだ携帯ゲームをして過ごすこともできました(現在の運用は要確認です)。「宿の人と話さなくていい」というのは、人が苦手な人にとって、それだけで大きな安心です。
7-2. 南紀白浜・椿温泉「湯治のできる宿 しらさぎ」(和歌山県白浜町)── 一人旅・3泊・湯治プラン
環境:宿の目の前には太平洋が広がっています。展望大浴場や部屋からは、水平線に沈む夕日が絶景です。白浜温泉の賑わいとは無縁の、小さな温泉地。それでいて車があれば白浜温泉や周辺の観光施設へのアクセスも容易です。第4章で述べた「有名観光地の外れの静かな温泉地」の好例です。


湯:椿温泉は古くからの湯治場で、しらさぎは昭和29年創業の湯治宿です。展望大浴場はかけ流しで、泉質はとろみのある単純硫黄泉。そしてここの真骨頂は、日替わりの壷湯です。地元で摘むよもぎ、またたび、アロエ、びわの葉、みかん、柚子、紀州備長炭から採れる木酢液、海藻、厳選した生薬などが日替わりで入り、男湯に2つ、女湯に3つの壷湯があります。壷湯は小さく、源泉約31℃という加熱なしのかなりぬるい湯(当時の体感)。連泊する湯治客にとって、毎日違う湯が待っているというのは、それだけで日々に小さな変化と楽しみが生まれ、退屈しません。
食:私は湯治プランで3泊しました。このプランの食事は胃もたれするような内容ではなく、しかも毎回内容が変わったため、ちょうど良かったです(最新のプラン内容は要確認)。豪華さより、毎日食べられる軽さ。心の湯治には、それが大事です。
距離感:家族で営むアットホームな宿でした。私は一人でしたが、押しつけがましさはなく、湯治客にとって心地よい宿だと感じました。
椿温泉しらさぎについては、当ブログの「【名湯を探して】椿温泉 湯治のできる宿しらさぎ を訪問しました」でも取り上げていますので参考にしてください。
7-3. 蔵王温泉「五感の湯 つるや」(山形県山形市)── 妻との二人旅・3泊
今回紹介する中で唯一、妻との二人旅です。妻は、元々体が弱く、仕事の多忙でメンタルにも不調が出て、不眠気味になっていました。純粋な温泉旅行ではありつつも、妻にはできるだけ本物の温泉に入ってもらいたい。住んでいる場所から遠方なので、将来子供が生まれる前の比較的自由の利く時期に行っておきたい。そんな理由が重なっての訪問でした。
湯:蔵王温泉は、強酸性の硫黄泉です。つるやには自噴する自家源泉があり、加温も加水もせず、館内すべての大浴場・露天風呂・貸切風呂にかけ流しています。大浴場と露天風呂は24時間入浴でき、趣の異なる4つの貸切風呂「湯楽通り」もあります。自噴、自家源泉、加温加水なし、全浴槽かけ流し、24時間。温泉にうるさい人でも「これは良い温泉だ」と納得する条件が、これほど網羅的に揃っている宿は多くありません。妻には、この本物の湯に入ってもらいたかったのです。
ただし正直に言えば、強酸性の硫黄泉は、この記事で初心者向けにおすすめした「刺激の少ない単純温泉」とは対極にある泉質です。肌が弱い人はピリピリすることがあり、上がり湯で流したほうがいい場合もあります。妻には幸い合いましたが、最初の一回として万人におすすめする泉質ではないことは書き添えておきます。慣れてきたら、こういう個性の強い名湯に挑戦する楽しみがある、という位置づけです。
距離感:3泊のうち2泊を素泊まり、最後の1泊だけ食事ありにしてもらうという、おそらく宿には手間をかけた変則的な予約でした。それでも宿の方は快く受けてくださり、極めて心地よい距離感で、それでいて丁寧な接客をしてくださったことを、8年ほど経った今も覚えています。近すぎず、遠すぎず。心が弱っている人の隣に立つとき、この距離感がどれほど難しく、どれほどありがたいかを、あの宿に教わりました。
妻の言葉:妻は今でも、「あのとき明確に体調が良くなった。宿泊中はよく眠れた」と話します。不眠気味だった人が「よく眠れた」と言う。それが、この記事で紹介した研究の中身、つまり温浴と睡眠、睡眠と気分の関係と重なることに、私は後になって気づきました。
注意:蔵王温泉はスキー場と樹氷で知られる有名観光地でもあります。静かに過ごしたいなら、冬のハイシーズンを外し、平日を選ぶことをおすすめします。
7-4. 3つの旅に共通していたこと
炭酸水素塩・塩化物泉、単純硫黄泉、強酸性硫黄泉。3つの宿の泉質はまるで違いました。山、海、雪国と、環境も違います。それでも、共通していたことがあります。
時間がゆっくり流れていたこと。不思議と頭の中が整理され、同時に、自分を見つめ直したうえで「これからも、やっていこう」という気持ちになれたこと。そして、宿の人が私たちを放っておいてくれる、あるいはちょうどいい距離にいてくれたこと。
だから私は、心の回復の鍵は泉質そのものというよりも、「本物の湯」に「良い自然」と「ゆっくりした時間」と「適切な距離感」が組み合わさったときに生まれるのだと考えています。単純温泉やかけ流しをおすすめするのは、この組み合わせを、初めての人が最も安全に手に入れるための入り口だからです。
8. まとめ:温泉は「きっかけ」。でも、そのきっかけは本物です
最後に、この記事の内容をチェックリストにまとめます。
行く前に
- 通院中・服薬中なら主治医に相談。つらさが強い時期は休養と治療を優先
- 泉質は単純温泉から。100%源泉かけ流しの掲示(加水・加温・循環・消毒)を確認
- 有名観光地とハイシーズンを避け、平日に
- 人目が気になるなら貸切風呂・客室露天風呂。宿の規模で「距離感」を選ぶ
- 予約の備考欄に「静かに過ごしたい」と一言
- 必要なら信頼できる人に、予約・送迎・同行を頼む。「途中で帰ってもいい」と決めておく
滞在中に
- 最低3泊4日(私見)。予定を入れない
- 入浴は1日2回程度、ぬるめに10分。湯あたりのサインが出たら休む
- 就寝1~2時間前の入浴で、眠りを整える
- 好きなことをして過ごしていい。自然を満喫「しなければならない」わけではない
温泉は、医療ではありません。ただ、温泉には、受信し続ける脳を止める時間があり、役割から降りられる場所があり、体を温めて眠りを整える力があり、感受性の強い人ほど深く味わえる自然があります。それらが組み合わさったとき、温泉は心が良い方向へ動き出す「きっかけ」になりうる。私はそう信じていますし、私と妻は実際にそのきっかけをもらいました。
もしあなたが、少しだけ余力を取り戻したところなら、次の一手として、静かな温泉を選んでみてください。そして、このような場を守ってくれている温泉宿の存在を、少しだけ覚えておいていただけたら嬉しいです。かけ流しの湯を守り続けることは、宿にとって簡単なことではありません。訪れることが、その文化を支えることにもなります。

よくある質問
Q. HSPや心が疲れている人に、温泉は本当に効果がありますか?
A. 「治る」とは言えませんが、根拠はあります。単純温泉の浴用適応症には自律神経不安定症・不眠症・うつ状態が国の基準で明記され、就寝前の温浴が寝つきを早めることはメタ分析で示されています。別府市の高齢者1万人調査では、毎日温泉に入る人にうつの既往が少ない傾向も報告されています。医療の代わりではなく、回復しやすい環境の一部として活用してください。
Q. 初めて行くなら、どんな泉質・温泉地がいいですか?
A. 刺激が最も少ない単純温泉で、100%源泉かけ流しの宿を、有名観光地とハイシーズンを避けて選ぶのがおすすめです。人目が気になるなら、貸切風呂や客室露天風呂のある宿を選びましょう。
Q. 何泊すればいいですか?
A. 私見では最低3泊4日です。公的な目安では温泉療養はおおむね2~3週間とされ、開始3~7日前後に湯あたりが出ることがあるため、3泊でも入りすぎないことが大切です。
Q. 人と話すのが苦手です。宿でどう過ごせばいいですか?
A. 素泊まりや食堂食、貸切風呂の利用で接触は減らせます。予約の備考欄に「静かに過ごしたい」と一言添えると配慮してくれる宿が多いです。日帰り施設を併設した大型の宿は、放っておいてくれる傾向があります。
Q. 通院中・服薬中でも温泉旅行に行けますか?
A. 行けることが多いですが、必ず事前に主治医へ相談してください。薬によって入浴時の注意点が変わることがあり、温泉には法律上の禁忌症もあります。症状が重い時期は休養と治療を優先してください。
Q. 旅行の手続きや移動が負担です。どうすればいいですか?
A. 信頼できる人に予約・送迎・同行を頼む、ネット予約とメール中心で電話を減らす、到着日は何もしない、「途中で帰ってもいい」と決めておく、といった準備で負担は減らせます。
参考文献・出典
- 環境省「温泉法第18条第1項の規定に基づく禁忌症及び入浴又は飲用上の注意の掲示等の基準」(自然環境局長通知、平成26年7月1日改訂) https://www.env.go.jp/nature/onsen/pdf/2-5_p_11.pdf
- 環境省(監修:日本温泉気候物理医学会)「あんしん・あんぜんな温泉利用のいろは」(2019年) https://www.env.go.jp/content/900492872.pdf
- 大分県「浴用・飲用上の注意事項」 https://www.pref.oita.jp/site/onsen/onsen-tyuui.html
- 日本温泉協会「温泉及び温泉地の効果」 https://www.spa.or.jp/onsen/509/
- 九州大学 研究成果「毎日の温泉習慣が高齢者の『うつ』の少なさに関連」(2022年12月)/Yamasaki S. ら(九州大学病院別府病院), Complementary Therapies in Medicine, 2022年12月13日オンライン公開 https://www.kyushu-u.ac.jp/ja/researches/view/860/
- Haghayegh S. et al. Before-bedtime passive body heating by warm shower or bath to improve sleep: A systematic review and meta-analysis. Sleep Medicine Reviews. 2019;46:124–135. https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/31102877/
- Naumann J. et al. Effects of hyperthermic baths on depression, sleep and heart rate variability in patients with depressive disorder: a randomized clinical pilot trial. BMC Complementary and Alternative Medicine. 2017;17:172. https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/28351399/
- Bratman G.N. et al. Nature experience reduces rumination and subgenual prefrontal cortex activation. PNAS. 2015;112(28):8567–8572.
- White M.P. et al. Spending at least 120 minutes a week in nature is associated with good health and wellbeing. Scientific Reports. 2019;9:7730.
- Kaplan S. The restorative benefits of nature: Toward an integrative framework. Journal of Environmental Psychology. 1995;15(3):169–182.
- Aron E.N. & Aron A. Sensory-processing sensitivity and its relation to introversion and emotionality. Journal of Personality and Social Psychology. 1997;73(2):345–368.
- Pluess M. & Belsky J. Vantage sensitivity: Individual differences in response to positive experiences. Psychological Bulletin. 2013;139(4):901–916.
- Flourishing as a highly sensitive person: a mixed method study on the role of nature connectedness and chaotic home environment. Frontiers in Psychology. 2025. https://www.frontiersin.org/journals/psychology/articles/10.3389/fpsyg.2025.1480669/full
- ひらゆの森、湯治のできる宿 しらさぎ、五感の湯つるや 各公式サイト(施設情報は訪問当時のものを含みます)


コメント